月刊『四畳半』
月刊『四畳半』という超マイナーな雑誌がありまして...。
季刊でよいようなものの、何故か月刊にこだわりながら毎月発行されています。
本屋さんの店頭では、まず目にすることはありません。
江戸間、京間、あるいは団地サイズなどで若干の誤差はあるものの、持続して購読すると、ある絶妙なタイミングで一畳ほど増やしてくれるらしい(何を?)ときいて、この雑誌の購読申し込みをしようと色々と調べていたところ、初心者は『四畳半LITE』から始めるべし、とのこと。
『四畳半LITE』を購読するためには、四条河原(京都か?)で三日ほどイグサ(藺草)を打つ講習会に参加せねばならぬ、と。ネコくんのこともあり、また、仕事のスケジュールをしなおして遠くまで出かけるのも面倒です。
そう思っていたら、東京でも出張の講習会があるというハナシを耳に。
こちらは、都心のとあるビルにて行われるらしい。三日間通うだけなら大丈夫かな、と起きたら連れ合いに相談しよう、と考えたところで「そうだ、いま自分は寝てんだよな」と気がつき目が覚めました。本日の朝のことです。
細部の感じが具体的なんですが、全体として意味が不明という夢。
少しカフカ的な気がして「自分にブンガク的才能があったのか!」と感動していたのですが、こうやって文字に書いてしまうとそれは大いなる勘違いだと良くわかりましたです、ハイ。
月刊『四畳半』の誌面とか、まだものすごくリアルに覚えています。夢の不思議。
矢野顕子さんが歌う「ゆめのよる」
http://youtu.be/Uy2gqJ2BwY4?t=2m44s
ほんの軽いものですが、ネコくんの話をしながら、連れ合い共々情動失禁のような泣き笑いをくり返しています。病気と闘うのではなく、やり過ごしたり受け流したり、合気道のように敵の敵性を削げば敵は敵ではなくなる、という感じになればいいな、と願っています。
壮絶になりそうですが、がんばるのです
もう二ヶ月近く更新をお休みしてしまいました。
すみません。
ネコくん、肝臓のガンはほぼ大きさも変わらず何とか天寿までやり過ごせるか、と思っていたところ、今度は腎臓の機能が急低下しまして、ま、これは年齢のせいもあって食事で何とかなりそう、というのが6月のことでした。
7月に入って食事中にエサをポロポロこぼすようになって、またしても動物病院へ。
レントゲンを撮ったところ、怪しいカゲが見つかって、下顎左側の骨がなくなっていました。どうやら、高齢のネコにありがちな骨のガンのようで。
しかしながら、高齢のためにもう全身麻酔は無理、従って、顎(と場合によっては舌)の摘出も無理。病理検査も無理なので、抗がん剤治療なども無理。日増しに顎のしこりが大きくなってきます。
連れ合いと話し合いまして、緩和ケアとQOLの出来るだけ緩やかな低下という消極的治療のみでネコくんの人生を見守ろう、と腹を括りました。
連れ合いは、終日の自宅勤務を申請。
驚いた事に許可されて、私は個人事業主であるので、7月以降は一日中ネコくんと一緒に過ごしています。
暗いハナシになってしまいましたが、近況はこんな感じです。
朝夕にネコくんを抱っこして三人で近くの遊歩道を散歩しています。ハーネスを付けた顎にコブのあるキジトラとヒト二人というトリオを見かけたらお声かけください。
写真は明け方、散歩途中の貯水池です。
タケミツ
雨、といえばタケミツというのがベタな連想。
彼の作品は思わず引き込まれるような厳しく美しい響きに満ちている、というよりも、霧のように彼此に現れては消え、堆積し、あるいは停滞し変化し... という響きのさまを感覚可能にするような時間の容れ物が彼の作品と言うべきか。なーんて。
昔通っていた学校にタケミツが講演に来た時のビデオ(!)が残っていて、そこで彼は非常に丁寧な英語を話していたのですが、印象的だったのは、共鳴音を長めに深かく発音していたこと。彼は音のそのように聴いているのだ、と想像したのでした。
さて、タケミツ。
個人的にはお腹いっぱい感もあったりしますが...。
"Rain Tree" by Toru Takemitsu, performed by the ...
セクエンツァ
ルチアノ・ベリオといえば数々の名曲があれど、楽器(独奏楽器)の可能性をとことんまで追求した「セクエンツァ」のシリーズ、その中でも特に「声」のための「III」是非とも挙げておかねば、と。
Luciano Berio: Sequenza III, per voce femminile ...
演奏はCathy Berberian。ド名演。ベリオがCathyと結婚していなかったならこの曲は生まれなかったのではなかったのではないか、と勘ぐりたくなるほどの名演かと思います。
発声や発音など主として音響面の探求を行っているようにきこえますが、ベリオの指導を受けた方によると、ベリオは、かなり広い意味でセリー的な思考の内部で素材を扱っていたらしいです。その意味では、この曲も(その音響現象はおいておいて構造的には)非常に伝統的な作曲の範疇にある、と言えるのかもわかりません。
さて、そろそろネコくんのエコー検査に行ってきます。
腫瘍が大きくなっていないことを祈るばかり。
ネコくんは音楽を聴いて何を思うのでしょう?